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いつか朝日が昇るまで

子育て、受験、日々考えたことなどを紹介するブログです。みなさんの気楽な子育て,中学受験を応援します。

上手い文章・下手な文章と面白い文章について

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しばらく前に書かれたid:fktackさんの文章でブクマしたのだけれども,なかなか時間がなくて言及できなかった以下のエントリーについて書きたいと思います。そのエントリーとは以下のものであり,私のエントリーのタイトルとも関係しているものです。


うまい文章 - 意味をあたえる

 

中身は文章についてであり,うまい文章・下手な文章という分け方に対して以下のような意見をid:fktackさんは書いています。

そもそも質問者の「うまい文章」というのがナンセンスで、「うまい」という乱暴な言葉が、その人の求めようとしている表現の形から、遠ざけてしまっている。うまい・下手で言うなら、私は下手な文章のほうがずっと魅力的で、面白いと思う。理由は、文章は誰でも書けるから。誰でも書ける、というのは語弊があるかもしれないが、だから、私はこれからその語弊をひとつずつ潰していかなければならいが、ちょっと面倒なので、この先は読む人を限定したい。 

 

私は「下手な文章」のほうが魅力的だ、と書いたが、魅力的だから当然そのような文章を目指して日々記事の更新に励む。毎日書いている。毎日書くメリットは、丁寧に手直しする間に翌日が来てしまうから、雑に書けるということだ。そういうことが「下手な文章」に貢献している。しかし、いくら私が「下手な文章」を目指したとしても、結局は「下手を装った文章」になってしまい、単に読みづらいだけの文章になってしまう。だから私はここにきてようやく、
「テクニックとは捨てるためにある」
という言葉の意味を知ることができた。これは一体誰の言葉だろう? 知ることができた、と軽はずみに言ってしまっていいのか? 本当は知らない。でも自分のものにできた。私たちは、そのもの自体を知らなくても、そのものの所有はできる。

 

文章というのは上手いか下手かという横軸と面白いか面白くないかという縦軸が必要だと思います。文章が上手いかどうかというのはある程度客観的に決めることができますが,面白いかどうかというのは主観的な判断が入りますよね。例えば川端康成は文章うまいと思いますが,私は面白いとは思わないんですよね。

 

それでid:fktackさんの文章ですが下手だけど面白い文章を目指していると思うし,現にそうだと思うんですよね。id:fktackさんの文章が下手に見えるのは一文が長くて読みにくく見えるからなんですが,私の亡くなった先輩も一文が長くて論文としては常に失格だと言われていました。それでなぜその先輩の一文が長いのかというと思いを一文に詰め込んでいるからなんです。途中でその想いを句点で区切ることができない。私の先輩はそんな感じでした。たぶんid:fktackさんも同じでしょう(間違っていたらすいません)。

 

人生を諦めるということ~ある先輩との別れ - いつか朝日が昇るまで

 

そういう文章を書いている人にとっては,上記引用にも出ている「下手を装う」というのが許せなくて,そういうのはつまらないんと思ってしまうわけです。これは下手だけではなく「上手を装う」というのもあって,「ああ,これ狙っているな」と思ってしまって途端につまらなくなってしまうなんてこともあります。

 

それで私自身は三島由紀夫の文章は上手いなと感じさせると同時に面白いと感じるのですが,しかし三島由紀夫の文章というのは言葉が尖っていて,常に緊張感を感じさせるんですよね。例えば福田恆存仮面の告白についての文庫版の中で以下のように三島の作品を解説しています。

 

 ぼくがある場所で三島由紀夫の作品のことを音楽ではなくオルゴルだと放言したのは,つまりそのことなので,かれ自身のことばでいえば「詩人」ではなくて「詩そのもの」だということになるのだろう。かれの作品は美しい音にみちている。が,いかにも不安定だ―それはオルゴルの気まぐれ。読者は,かれが自分の気まぐれにしたがって,興ふかげに,そしていくぶんたいくつそうにそれをゆりうごかしているのに聴きほれる。が,それは音楽の与える喜びとはあきらかにべつのものなのだ。

 音楽はひとつの必然によってつらぬかれ,安定したリズムとメロディーによってみちびかれる。だからわれわれは容易にそれに乗じて,ひとつの主題の展開に参与し,聴手もまた創造の喜びをわかちうる。が,オルゴルは気まぐれで不安定で,つぎの瞬間にどんな音が出てくるか見当もつかない。そのくせ,そこではどんな偶然もわれわれを驚かさない。オルゴルの音はつねにあまりにオルゴル的であり,夢幻的な華麗という限定詞に背くことは決してありえないのである。それは美しく楽しいが,どこまでいってもおなじことだ―完結はない。三島由紀夫の作品の特徴である。

(269頁)

 

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

 

こうした作品と向き合うのはかなりのエネルギーがいるので,好きではありますが,毎日読めないんです。だから三島のようなあまりにも上手い文章というのは面白いけど読めません。では下手な文章をとなるわけですが,基本的に世に出ている文学作品に関して言えば文章が下手な人というのはいなくて,平坦な文章と表現した方がしっくりくるんです。そういう文章は淡々と書かれていて読み終わったあとに「ふーっ」と一息付く感じのものです。ただ淡々と描かれて面白くないものは次の作品にすぐ移れるのですが,面白いものは読後感というのが充実してますね。

 

私なんて文学少年でも文学青年でもなくて,文学について語るのはおこがましいかもしれないですが,文学論ではなくて,文学面白いよねという話ならしても良いかなと。それで私は最近ほとんど小説を読む時間がなくて,ダメなんですが,以前にも紹介した宮本輝作品が好きなんです。それが先ほど書いた淡々とした作品なんです。

 

皆それぞれ辛いことがありながらも生きているという話 - いつか朝日が昇るまで

 

それで今,手元に「幻の光」があるのでその最後の部分を引用してご紹介します。

 

 また冬を越し,春を迎えた。雄一も小学校に入学しました。

 いったいどんな考えから,民雄さんが言うたのか,それきり確かめたこともないけど,確かにこの世には,人間の精を抜いていく病気があるんやと,あれ以来わたしは考えるようになった。体力とか精神力とか,そんなうわべのものやない,もっと奥にある大事な精を奪っていく病気を,人間は自分の中に飼うているんやないやろうか。そうしみじみと思うようになったのでした。

 そして,そんな病気にかかった人間の心には,この會々木の海の,一瞬のさざ波は,たとえようもない美しいものに映るのかも知れへん。春も盛りになり,濃い緑色に変色してきた會々木の海の,荒れたり凪いだりしているさまを眺めて,わたしはひとりうっとりとしていく。

 ほれ,また光りだした。 風とお日さんの混ざり具合で,突然あんなふうに海の一角が光り始めるんや。ひょっとしらたあんたも,あの夜のレールの彼方に,あれとよく似た光を見てたかも知れへん。

 じっと視線を注いでいると,さざ波の光と一緒に,ここりよい音まで聞こえてくる気がします。もうそこだけ海ではない,この世のものではないやさしい平穏な一角のように思えて,ふらふらと歩み寄って行きとうなる。そやけど,荒れ狂う會々木の海の本性を一度でも見たことのある人は,そのさざ波が,暗い冷たい深海の入口であることに気づいて,我に返るに違いありません。

 ああ,やっぱりこうやってあんたと話し込んでると気持ちがええ。話し始めると,ときおり体のどこかに,きゅんと熱っぽい痛みが湧いてきて,気持ちがええのです。

 お義父さんの,痰の絡まった咳が聞こえます。お腹が空くと,ああやってニ階でさぼってるわたしにしらせるんや。何を思い出してるのか,縁側に座ってにこにこ笑いながら,日がな一日暮らしてはります。

 もうそろそろ,勇一が学校から帰って来る時間や。

(80~81頁)

 

幻の光 (新潮文庫)

幻の光 (新潮文庫)

 

 

 なんとなく私が書いた感覚が伝わるでしょうか。淡々と描かれている文章だけれどもとても面白い文章。読んだ後に余韻が残る文章。こうした文章が落ち着くし面白いかなと思います。この気持ち,大学時代から変わりません。