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いつか朝日が昇るまで

子育て、受験、日々考えたことなどを紹介するブログです。みなさんの気楽な子育て,中学受験を応援します。

集団的自衛権の問題を考えるために~吉田茂の回想十年より

研究 ニュース

集団的自衛権の行使を解釈改憲をすることによって可能にしようと安倍政権は考えており,最近会見まで開いて理解を求めています。なぜ集団的自衛権の行使をしなければならないのか,安倍総理は以下のように述べています。

 

 一緒に平和構築のために汗を流している、自衛隊とともに汗を流している他国の部隊から救助してもらいたいと連絡を受けても、日本の自衛隊は彼らを見捨てるしかないのです。これが現実なのです。

 

(中略)

 

皆さんが、あるいは皆さんのお子さんやお孫さんたちがその場所にいるかもしれない。その命を守るべき責任を負っている私や日本政府は、本当に何もできないということでいいのでしょうか。内閣総理大臣である私は、いかなる事態にあっても、国民の命を守る責任があるはずです。そして、人々の幸せを願ってつくられた日本国憲法が、こうした事態にあって、国民の命を守る責任を放棄せよと言っているとは私にはどうしても考えられません。

 

(中略)

 

だからこそ私は積極的平和主義の旗を掲げて、国際社会と協調しながら世界の平和と安定、航空・航海の自由といった基本的価値を守るために、これまで以上に貢献するとの立場を明確にし、取り組んできました。積極的平和主義の考え方は、同盟国である米国はもちろん、先週まで訪問していた欧州各国からも、そしてASEANの国々をはじめとするアジアの友人たちからも高い支持をいただきました。

 

(中略)

 

1つは、個別的か、集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は禁じられていない、また、国連の集団安全保障措置への参加といった国際法上、合法な活動には憲法上の制約はないとするものです。しかし、これはこれまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合しない。私は憲法がこうした活動のすべてを許しているとは考えません。したがって、この考え方、いわゆる芦田修正論は政府として採用できません。自衛隊武力行使を目的として湾岸戦争イラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません。

 

もう1つの考え方は、我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方です。生命、自由、幸福追求に対する国民の権利を政府は最大限尊重しなければならない。憲法前文、そして憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることは禁じられていない。そのための必要最小限度の武力の行使は許容される、こうした従来の政府の基本的な立場を踏まえた考え方です。政府としてはこの考え方について、今後さらに研究を進めていきたいと思います。

 

(中略)

 

記者:テレビ朝日の吉野と申します。法制懇の報告書についてお伺いしたいのですけれども、今、総理はすべてを検討対象とはしないと、事例に即してということをおっしゃったのですけれども、法制懇の報告書にも幾つかの事例が入っておりますけれども、どれを検討対象としてどれを検討対象としないのか、その理由もあわせて教えていただければと思います。

 

安倍:今回は、2つの異なる考え方を報告書によって示していただきました。1つは、個別的か集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は禁じられていない、また国連の集団安全保障措置への参加といった国際法上合法な活動には憲法上の制約はないという考え方であります。しかし、これは、これまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合しないと考えます。私は、憲法がこうした活動のすべてを許しているとは考えません。したがって、この考え方、いわゆる芦田修正論でありまして、我々が自衛権を行使できるのは芦田修正によるという考え方でありますが、その考え方は政府としては採用しないということであります。もう1つの考え方は、我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方でありまして、政府としてはこの考え方について、今後さらに研究を進めていきたいと思います。

 【全文】安部総理、集団的自衛権と憲法解釈について会見「日本が再び戦争をする国になることは断じてありえない」 | ログミー[o_O]

 

 

ということで2つめの考え方を採用し,どの範囲まで集団的自衛権の行使を容認するかの憲法解釈の変更をしていこうとしているわけです。ここにも出てきている芦田修正は憲法を成立の際になされたものであり,そういう意味では戦後から同じような議論が続いているわけです。自衛権に関しては無限定に認めず,必要な時に限り集団的自衛権は認める。具体的にどう解釈するのか,またそのようなことが可能なのかよく分かりません。

 

こうした現状を理解するためにも,集団的自衛権の問題を議論するためには当時の「戦力」「自衛権」に関する議論を踏まえておくべきだと考え,吉田茂の『回想10年』(中公文庫版)を元に本ブログに記しておきたいと思います。ただしこちらは吉田茂の回想ですので事実と反する部分もありますが,それでも今の集団的自衛権の問題を考えるために必要だと考えますので,あえてそのまま引用していくことにします。

 

「戦力」とは何か

安倍総理の発言にもあるように芦田修正によって日本の自衛権は確保されたわけですが,安倍政権もその修正は支持せず,吉田茂も同様でした(ただし個別的自衛権に関しては吉田茂以後,必要最小限度認めらるという立場)。

 

憲法改正時,吉田は以下のように発言していました。

 

「正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが,私はかくの如きことを認むることが有害であると思う。近年の戦争の多くが,国家防衛権の名において行われたことは顕著なる事実である。故に正当防衛権を認むることは,戦争を誘発する所以であると思う」(回想10年 2 46頁)

 

しかし,憲法制定時否定していた自衛権ですが,それが再軍備の過程で自衛権ではなく,「戦力」の定義をすることで自衛権の問題を乗り切ろうとしていきます。自衛権を否定していても必要最小限の「実力」として自衛隊を持つことができる。なぜならそれは「戦力」ではないからです。

 

憲法で「保持しない」というところの「戦力」は,「近代戦争を有効に遂行し得る装備編成を持つ」ところの実力部隊と解釈するのだが妥当である,というのである(同 192頁) 

 

自衛隊が軍隊であるかどうかは,”軍隊”の定義にもよることであるが,憲法交戦権が制限されている以上,これを普通の意味において軍隊といえるかどうかは疑わしい。しかし,いずれにしても,定義の問題であるから,戦力に至らしめない条件の下に,軍隊と呼んでもよかろう」と答えた。(同 193頁)

 

 これが自衛隊が「戦力なき軍隊」と言われる理由です。このような立場を継承する場合,また芦田修正を容認しない場合,必要最小限の自衛権の行使の中に集団的自衛権は含まれないとし,別の解釈によって限定的に集団的自衛権の行使を実現しようと考えたのではないかと思います(おそらく公明党への配慮でしょう)。

 

ではなぜ安倍政権集団的自衛権を限定的ではありますが,行使しようとしているのでしょうか。さまざまな理由を会見で挙げていますが,私は日米安保の問題が大きいのではないかと考えます。

 

両国対等の立場で

日米対等ということに関連して,わが方から米国側に希望した諸点の中で,最も重要であったことは,協定の中に日本の安全保障に関する米国側の責任を明示するということである。つまり,日本側に駐兵受入れの義務があるのに対して,先方に国土防衛の義務があることを明らかにしたかったわけである。しかし,これに関する米国側の態度は,「日本の要求するような安全保障の義務は約束できない。今日の日本は自衛の能力を持っていない。自衛の能力なき国と,相互に安全保障の取極めをなし得るはずがない」というに尽きる。先方の言い分ももっともな話であると思えた。(同3 145頁) 

 

こういう流れの中で集団的自衛権の議論を見ると,対等な日米関係を目指した岸信介を継承し,対等な日米関係を築くために集団的自衛権の行使を容認すべきだと考えたのかもしれません。今後,公明党の動きによってもいろいろと変わる可能性もありますし,どのように憲法解釈するのか分かりませんが,過去の議論を知っておくことでどのような議論がなされても対応できるようにしていきたいですね。

 

 

政府の憲法解釈

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