いつか朝日が昇るまで

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本を読むという難しさ~改めて読書とは何か

以下の記事を読みました。私も本を読むということはとても重要だと思います。しかし本を読むということはとても難しいと思うんですね。

人生は限りあるものだから、考えて生きていたい - 心がよろけそうなときに読むポンコツ日記

 

まず私は新書って読むのが難しいと思うんです。一見簡単に見えますが,量が少ないということはこちらが行間を埋めて読んでいかないといけない。だから知識が深まってくると「こんなに簡単に結論付けていいの?」となる部分が多くあるわけです。昔は新書に注がなかったのでさらに大変でしたけど,今は注があるから議論の流れが終えて助かっています。

 

また世の中には難しい本というのもある。そういう場合,「なぜそのような結論になるのか」というのは,分かる部分から全体像を描き出した上で理解するしかありません。

 

以下の芦田宏直先生の本にも読書の方法が書かれています。本を読むということがどういうことであるのか書かれていますのでご紹介します。

 

 

”わかる”箇所からこじ開ける

 すべての文言が理解できる本などというものは,ほとんどあり得ない。”本が読める人”というのは,むしろ読み飛ばすことができる人のことを言う。どんな難しい本も,必ず二行や三行くらいは”わかる”文章に出会うことがある。そういった二行や三行が五頁おき一〇頁おきに一箇所,二箇所必ず存在している。そういった”わかる”箇所を一つ,二つと見出し始めていくと,従来わからなかった箇所の一部までもなんとなく分かってくる感じがする。点が線で結びついていく。そうやって,こじ開けるようにして難しい本を読み開いていく。それが読書だ。

 本を読める人というのは,すべてがわかる”賢い人”なのではなくて,わからないことを恐れない人のことを言う。わからないところで断念するのではなくて,飛ばして先に進む勇気があるかないか,それが読書の境目。本を読めない人は,わからないところが出てくるとすぐにそれで諦める。誰が読んでもわからない,そう思えないのが本を読めない人の特徴。(126-127頁)

 

分からない箇所はとりあえずそのままにして先に進むこと。確かにそうしていかないと理解できないものは多くあると思います。先に進んで後から振り返る。「ああそういうことだったのか」と思えるわけです。でも以前,芦田先生にカントの『啓蒙とは何か』について質問した時に,頁数まで指定されていたので,先生は細部まで読みこんでいると思います。それは何回も読みこんでいることを示しています。

 

何回も読み直せるかどうかがその文学を本質的なものにする。それが始まりも終わりもない書物や文学の本質を言い当てている。(128頁) 

 

さらに素晴らしい文学になると解釈が多様に出てくる。文学作品に新しい読みが出てくるのは繰り返し読むことで中身が変わって見えるからである。そういう作業に耐えるテキストは素晴らしいと思うし,なかなかめぐり合えないと思います。

 

しかし飛ばして先に進むことを勧めると分かるところしか読まず,振り返らないという人達もいます。これは結構多いもので,一箇所だけを抜き出してそれを引用してもその文が全体としてどのような意味を持つのか理解していなければ何の意味もありません。

 

 わかったところだけを引用しても,読んだことにはならない。すべての言葉は和音として<一つの音>を出している。<全部>が鳴ることによって<一つの音>を出している。その<一つの音>から一つ一つの言葉,文節,行,段落が存在している。

  何が書いて<ある>のか,というテキストの<像>への参照性なしには,個々の言葉への言及はほとんど意味をなさない。<引用>とはその像の理解なしにはないもの。<像>を離れれば,すべてはご都合主義の引用でしかない。(132頁)

 

そういう意味でも引用というのは非常に難しく,センスも問われると言えます。それにしても「本を読もう」と言う人は多いんですが,ではどれぐらい本をしっかり読めているかとなると怪しいところもあると思います。私自身も大学で初めて本を読んだと言うことができます。大学のゼミで先生と一緒に本を読む。新たな発見の連続でした。

 

そういう場を提供するのが私にとっての大学であったし,今後もそうであって欲しいと思いますし,大学に行かなくてもここに書かれていることや芦田先生の本を参考に,本を読むということを考えてほしいなと思います。