いつか朝日が昇るまで

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引きこもってもいいじゃないか~押井守のコミュニケーション論

 

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私は人とコミュニケーションをとることが苦手なのですが,妻は出会った時に「こんなにしゃべる人はいない」と思ったそうです。いったいこの認識のギャップは何なのか。それは以下の押井守のいう「コミュニケーション不全」とかなり近いのかもしれない。そこで今回は以下の本をご紹介します。

 

 

凡人として生きるということ (幻冬舎新書)

凡人として生きるということ (幻冬舎新書)

 

 

 自分のいる場所としての学校が,僕には息苦しくて仕方がなかった。 そんな僕が外に出ることを楽しく思えるようになったのは,学生運動を始めてからだ。高校時代に学生運動に目覚め,近所の大学に赴いては,バリケードの中で革命の理想を語る。そんな時は,生き生きと語らうことができたし,毎日が楽しくて,充実し,友人と議論を交わした。

 

 つまりしゃべるべきテーマさえあればいくらでもしゃべることができたし,自分にとっての居心地の良い場所さえ見つかれば,そこには喜び勇んで飛び出して行けたということだ。

 

(中略)

 

 だから,クラスの女の子に「お茶しに行こう」とは言えなかったが,「ベトナムについてどう思う?」と話しかけることはできた。要するに,話す理由もテーマもないのに誰かと面ど向かって過ごすのが苦痛だっただけだ。価値観を共有できない人間と一緒に過ごす時間には耐えられなかったのである(112-113頁)

 

学生運動は引きもり脱出の手段として機能していたのか!!という突っ込みは止めておきまして,この気持ちはとてもよく理解できます。私が妻に「よくしゃべる人だ」という印象を抱かせたのは同じ仕事をしていたということと,妻も哲学の勉強をしていたということで,共通の話題があったからですね。

 

子供を持った夫婦が子供中心の生活になるというのは,子供について話題を共有できるからであり,その結果,生活も子供中心になっていると考えられるわけです。ではなぜ押井さんは外に出るのか。それは仕事に話すべきテーマがあるからです。

 

僕は今でも,話すべきテーマがない時に他人と話したとは思わないし,そうする必要を感じたこともない。

 

(中略)

 

 つまり,仕事という場を得たことで,話すべきテーマが山ほど見つかったということであり,そこで交わされる言葉は,会話のための会話ではないし,それぞれ必要なおしゃべりであり,また,自分が今一番,興味のあるテーマとなっている。

 

(中略)

 

 僕には友人と呼べる人はひとりもいない。けれど,仕事仲間ならたくさんいる。友人などほしいとも思わない。仕事仲間がいれば,それで十分だ。

 

 では,友人と仕事仲間の違いとは何か。

 

(中略)

 

互いに利用しあう関係が仕事仲間であって,「損得抜きで付き合う」といった関係が友人同士の付き合いである(123-126頁)

 

そうか,友人でなくても良いんだ。仕事上の付き合いだけでも良いんだ。確かにそうかもしれない。ただここまで来たところで押井さんと私との違いに気付きました。押井さんと私の違いはそれで良しと出来ないところにあります。例え損得勘定抜きの関係が「幻想」であったとしても,それに憧れてしまいます。コミュニケーションを取るのが苦手なはずなのに,人と接して傷つくこともあるはずなのに,です。

 

最後に押井さんは以下のように言います。

 

損得勘定で動く自分を責めてはいけない。しょせん人間は,損得でしか動けないものだ。無償の友情とか,そんな幻想に振り回されてはいけない。(134頁) 

 

こう割り切れないものが「承認欲求」なのかもしれないし,その「承認欲求」さえも「損得勘定の一部」なのかもしれません。それでもなお,その「幻想」に振り回される私はそれを否定することよりもそれを受け入れていくことで生きていこうと思っています。

 

そしてその「幻想」が「現実」となるのは,私にとっては「家族」です。もちろんそれは「幻想」なのかもしれませんが,「幻想」も信じることで「現実」になれば良いですし,「幻想」か「現実」かを分ける必要も感じていません。いわゆる思い込みの力ですね(笑)。

 

そう考えて日々私は生きています。そういう居心地の良い場を手に入れたからこそ外に出ず,さらにコミュニケーション不全になっていくのかもしれません。まあそれでも良いのかもしれませんが(笑)。