いつか朝日が昇るまで

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死んだ人々の生命はこの世で終わるのではない~トルストイ「人生論」より

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大学時代,時間もあったのもあるかもしれませんが,「人生って何だろう」,「自分がこの世に存在している意味って何だろう」と考えていました。普通に就職し仕事をしていく。それもまた人生ですが,何かそういうものに魅力を感じず,人生の選択に迷っていた時期です。

 

そんな時にトルストイの「人生論」を読みました。かなりキリスト教の影響があるので,そういう考え方が嫌いな人は違和感があると思いますが,大学生の自分にとってはとても魅力的で「こんな風に生きることができたらいいな」と思わせてくれた本です。

 

人生論 (新潮文庫)

人生論 (新潮文庫)

 

 

その中で特に印象に残っている第21章「死んだ人々の生命はこの世で終わるのではない。」(168-175頁)を紹介します。この章のタイトルでも分かるようにテーマは「永遠の生」なのですが,実際に死というものを意識していた私も肉体的な生というよりも,何かをこの世に残せたらという思いが強かったので,この章が特に印象に残ったのだと思います。一般的に死とは肉体的な死を意味するわけですから以下のように死を考えるのが普通です。

 

「彼とわれわれの間の,いっさいの連絡が断たれてしまった。われわれにとって彼は存在しないし,われわれだってやはり,あとに残る人たちにとっては,存在しなくなるのだ。これが死でなくて,いったい何であろう?」生命を理解しない人たちは,こんなふうに言う。(169頁)

 

しかしトルストイは死んだ人間(ここでは兄)の思い出が残っているといいます。この思い出とは何でしょうか?

 

結晶や動物の間には思い出など生まれない。ところがわたしには,親友や兄の思い出があるのだ。そしてこの思い出は,わたしの親友や兄の生命が理性の法則に合致していればいるほど,そしてまたその生命が愛のうちにあらわれたことが多ければ多いほど,ますます生きいきしたものになる。この思い出はただの観念ではなく,何かわたしに作用するものである。それも,地上の生存の間を通じて兄の生命がわたしに作用していたのと,まったく同じように作用するのだ。この思い出こそ,兄の肉体的生存の間,兄の声明をとりかこみ,ちょうど兄の死後もわたしに作用しているのと同じように,わたしや他の人たちに作用していた,あの,目に見えない,非物質的な雰囲気にほかならないのである。この思い出が,兄の死後の今も,生前に要求していたのとまったく同じことをわたしに要求する。そればかりではなく,この思い出はわたしにとって,生前よりも死後のほうが,いっそう義務的なものとなる。わたしの兄のうちにあった生命の力は,消えも減りもしなかったばかりか,そのまま残ったのでさえもなく,むしろ増大して,以前よりいっそう強くわたしに作用するのである。(170-171頁)

 

つまり思い出が地上に生存しているものに影響を強く与えるので,そういう意味では生命は終わってない。そしてそのような生命を手に入れるには以下のことが必要であるとします。

 

生命の法則を実行し,自己の動物的個我を理性に従属させ,愛の力を発揮した人はだれでも,自己の肉体的生存の消失後もほかの人々のうちに生きつづけ,現に生きているということを,知るだけで十分である。(174頁)

 

この章を読んだ時にこの世に何か残すためには人のために何かを成すことであり,その結果として成果が人の心に残るんだなと思ったわけです。自分のために成したことは時代と共に風化し,消費され消えていく。しかし,人のために成されたことは人の心に永遠に残り,次の世代にも語り継がれていく。

 

そんなことを考えて就職しないで大学院に行ったら,今みたいな状況になってしまいましたが(笑),何か人の役に立てることができればと今でも思っています。生活に追われ,自分の生存にも汲々としている状況で,そんなことを言える立場でもないのですが,何とか死ぬまでに実現できればと人生を送っているところです。まあ,人生頑張っていきたいと思います。

 

 この本も読みました。宗教が苦手でない人はどうぞ。

光あるうち光の中を歩め (新潮文庫)

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