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いつか朝日が昇るまで

子育て、受験、日々考えたことなどを紹介するブログです。みなさんの気楽な子育て,中学受験を応援します。

昨日の「不運」は今日の「幸運」かもしれない

考え方

 finalventさんの記事を読みました。不運というものは防ぐことができないというのは確かなので,それを乗り越ようという話は以前書きました。

「不運を分け合う」こと~偶然にどう対処するか - いつか朝日が昇るまで

 

ただこちらは不運を分け合うという主張で,不運そのものの責任の問題を論じている物ではありません。そこで改めて不運について考えてみたいと思います。そこで最も重要なのは以下の部分です。

 

つまり、物事をポジティブに考えればうまくいくというのではなく、不運があってもそれを自分が乗り越えられるという確信が楽観だというのだ。
 そうなんだろう。
 そして、私は悲観的なリアリストとして、自分の運命は自分でコントロールできると意識の底で信じているから、自分の能力で対処できない不運まで自分の能力で対応しようとして、そして結局できないから、自分の能力の欠落だと思うようになってしまう。

人はなぜ不運を自分の能力の欠如だと思うのだろうか?: 極東ブログ

 

自分の責任で不運が起きたと考えると,自分の力でそれを乗り越えようとするわけですが,結局それもできないとなるとさらに落ち込みます。以前,読んだ本に,日本人は自分の手が滑ってコップを割った際にも謝るが,欧米人はそれは自分の責任ではないので(不運なので)謝らないという文章があったが,日本人の特性として過度に自分の責任にしたがるところはあるかと思います。そういう意味では日本人は現実に対して悲観的なのかもしれません。

 

だから悲観的な人に向かって,そんな「不運」は君の責任ではないよと言ってもあまり意味がなくて,どうやってその「不運」と付き合っていくかという話になりますし,個人の責任だと感じている人に,以前に書いた記事のように「不運を分かち合う」ことを問うても意味がないのかもしれません。

 

不運が起きるとそれを克服して前に進んでいることが素晴らしいと言われがちですが,前に進まなくても別に良いのではないかと思うんですよね。「不運」は「不運」で良いのではないか。finalventさんも言っているように時が解決してくれるというのがあるでしょう。ただその解決というのは「不運」が消えてなくなるのではなく,「不運」の意味が変わってくると考えるのが良いと思います。

 

自分自身の場合,自分の中では「不運」だと思ってきたことが,今起こったら「不運」だと思わなくなりました。というのはきっとその「不運」の先には「不運」そのものの意味があると分かったからです。以前,ツレうつの映画版を見て,そうだよなと改めて思いました。

 

 

 

ツレがうつになりまして。 (幻冬舎文庫)

ツレがうつになりまして。 (幻冬舎文庫)

 

 

 

「不運」そのものの原因ではなく,「不運」そのものの意味を考えること。こんな風に考えるのも「不運」だと思えた人生の先に,今の人生があり,それがとても良い人生なのではないかと信じられるようになったから。要するに歳を取ったからかもしれません。

 

「不運」というものの人生における意味を考えるという作業は人それぞれでいろいろなやり方があると思いますし,「不運」の人生における意味を考えるとは「不運」に意味付けする作業なので,積極的な意味合いを持たせることも可能になると思います。それはその「不運」から人生が切り離されることを意味していて,それが「不運」を受け入れるということになるのではないかと私は考えます。

 

人から見れば私の人生は決して良いものには見えないのかもしれませんが,不運に積極的な意味付けをすることで,「お前が良いって言うなら良いんじゃないの」ぐらいの言葉はかけてもらえるかもしれません。そうやって「不運」の意味は人生において乗り越えられていくのではないでしょうか?

 

 

考える生き方

考える生き方

 

 

 finalvent