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いつか朝日が昇るまで

子育て、受験、日々考えたことなどを紹介するブログです。みなさんの気楽な子育て,中学受験を応援します。

「執着」には「怒り」が伴うものではないのかな?

考え方

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以下のシロクマ先生のエントリー読んだ。先生は人の「執着」が大好物のようだ。私も人の執着が面白いと思ったことはあるけど大好物までにはいかない。

 


執着の鑑賞について - シロクマの粘土板

 

それでシロクマ先生の場合,執着心そのものではなく執着心がどのような形で現れるかに興味あるようだ。だから金に対する執着や承認に執着している人が書くものには興味が持てないようである。

 

 アフィリエイトをはじめ、ブログ執筆のインセンティブとして金銭的利得や世俗的利得が大きなウエイトを占めるようになってきたのも、「言及しましたね!」をやりにくく、つまらなくしてしまった。お金のためのブログや世俗的利得のためのブログは、そのあたりがインセンティブとなっている割合がどうしたって高い。承認欲求の超新星を欲しがっている人なども、自分が好きなネタをブログに書くというよりは、大向こうにウケそうなネタをブログに書く可能性が高く、検出される執着が「承認欲求に飢えてます」だけで、ちっとも面白くないことがある。

執着の鑑賞について - シロクマの粘土板

 

しかし金や承認欲求に執着する人でもそれが突き詰めていけばまた違った形の面白さが出てくるのではないかな,なんて私は思うわけですが。

 

「承認欲求モンスター」の先に「リアルな世界」があるのかもしれない - いつか朝日が昇るまで

 

 

それで自分は執着されるということはほとんどなくて,執着する方が多いし,その方が心地よい。そういう性格であるから,恋愛に関しても愛されるよりも愛したいと思ってしまうし,子どもに一方的に愛されるという行為に戸惑いを覚えるのかもしれない。だから私は自分の息子が私に執着していると妻が言っても「そうかなあ」と思ってしまって,妻に怒られることがある。私は人に執着されるという行為になれていなんだと思う。

 

こうして執着する側に立っている私は,なぜ執着するのかに関しては理解できる。最初,その執着は「愛」である。何かを愛し,それに執着する。例えば,学問を志すときはまさにそれで,偉大な研究者に対する「憧れ」や「愛」が存在している。しかし,「愛」は時に「怒り」に変わることがある。「あなたはそんなことを言ってはいけない」「あなたの考え方からそうした主張は出てこないはずだ」とまさにその本人になりきってしまい,自分が描く相手の像を絶対視して,「愛」を「怒り」に変換していくのである。

 

もちろんこれは何も学問の世界だけではない。結婚生活もそうで,愛するがゆえに怒ってしまうという感情は理解できる。一緒に生活し,一緒にひとつのことを行っていく中で相手のことを理解できたと思い,相手の行動に怒りを覚えてしまう。それは決して相手が悪いわけではなく,自分自身の執着の現れであるため,問題は自分自身にこそあるのに相手に問題を求めていくという構図。そういうことは結構多いのではないだろうか。

 

また子供に対しても同じだ。子どもを小さい時から育てているため,「あなたのことは分かっている」「私の言った通りにすれば大丈夫」など子どもに対すして執着してしまう。そして思い通りに行かないと怒る。これはしつけではないが,止められないし,そうした行為が悪いということも分かっている。

 

虐待をするかしないかの境界線ははっきりと存在しているわけではない - いつか朝日が昇るまで

 

 さらに執着が「愛」や「怒り」を形成することによって,ますます「執着」していくということはよくあることである。こうした執着をやめようと思えば思うほど執着してしまう。ある意味「病的な」領域に足を踏み入れているわけで,それが「病気だ」と言われたら「そうだ」としか言えない。何かに執着し,愛し,怒ること。それは外から見ていたら「面白い」のかもしれないが,当人は苦しんでいるのかもしれないなと思ってしまうことが,自分が他人の執着を大好物とまで楽しめない理由になっているのかもしれない。

 

私にとって執着とは「怒り」を伴うものだが,「愛」のみで終わる執着もあるのだろうか。それが執着だというのには違和感があるのだが…。

 

 

融解するオタク・サブカル・ヤンキー  ファスト風土適応論

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