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いつか朝日が昇るまで

子育て、受験、日々考えたことなどを紹介するブログです。みなさんの気楽な子育て,中学受験を応援します。

「空虚な承認ゲーム」から抜け出せるのか

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職業柄,多くの文章に触れる機会があるのですが,ある入試問題を読んでいて「なるほど」と思えたので皆さんにもご紹介します。まだ本は入手していませんので(注文はしています),ページ数は明記していませんが,引用してみたいとおもいます。その本とは山竹伸二「『認められたい』の正体」です。

 

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

 

 

まずこの本が前提としている社会状況は以下のようなものです。

現代は承認への不安に満ちた時代である。自分の考えに自信がなく,絶えず誰かに認められていなければ不安で仕方がない。ほんの少し批判されただけでも,自分の全存在が否定されたかのように絶望してしまう,そんな人間があふれている。

 

こうした中で「ありのままの自分」を受け入れてくれる場所がないというのです。

しかし現在,多くの人が家族に対して本音を隠し,「ありのまま自分」を過度に抑制し,家族の求める役割を演じ続けている。そうしなければ,家族というシステムを維持することができず,相互に承認しあっている微妙な関係が壊れ,自らの居場所を失ってしまうからだ。しかもこうした不安から家族の承認が維持されている限り,そこには特に「認められている」というよろこびは生じない。

 

これ,自分だと思ったんですよね。小学校時代,いじめにあった時にも家族に言うことはできませんでした。家族の中でも「あるべき自分」を演じていたんだろうなと思うのです。そしてそれは今の自分の両親に対してはほとんど変わらないように思います。

 

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そしてこれは家族間だけの問題ではありません。「ありのままの自分」は友達に対しても見せることができないのです。

 実のところ,このような偽りに満ちたコミュニケーションは,現代社会では家族以外の人間関係においても頻繁に行われている。

(中略)

 このようなコミュニケーションは「仲間であることを確認(承認)しあうゲーム」とも言い得るが,しかしその証は明確な役割や目的によるものではなく,空虚なものでしかない。価値のある行為によって認められるわけでも,愛情や共感によって認め合うわけでもない。それは場の空気に左右される中身のない承認であり,以下,このような承認をめぐるコミュニケーションのことを,「空虚な承認ゲーム」と呼ぶことにしよう。

(中略)

 「空虚な承認ゲーム」が最も目立ったかたちで見られるのは,思春期における学校の仲間関係であろう。かつてこの関係は,親に認められなくとも,「ありのままの自分」を受け入れてくれる安息の場所であった。

(中略)

しかし,いまや思春期における多くの仲間関係は,本音をさらけ出せる場所ではなく,「ありのままの自分」を抑制せざるを得ない閉塞感が漂っている。

 

最近あった川崎の中学生の事件もそうなのですが,彼らは聞かれれば「仲間」と答えるのでしょうが,それは愛情や共感に基づくものではなく,恐怖に基づくものでしょう。確かにここまで恐怖によって縛られる人間関係は少ないかもしれませんが,相手に合わせること(これも見捨てられる恐怖ですが)そのものが目的になってしまう「空虚な承認ゲーム」が存在しているのは確かですし,自分の幼少期の友人関係もまさにこれです。

 

そしてこうした「空虚な承認ゲーム」は仲間以外との垣根を作ることでさらに強固なものとなるのです。

 求められているのは「自分は価値のある人間だ」という証であり,その確証を得て安心したいがために,身近な人々の承認を絶えず気にかけ,身近でない人々の価値を貶めようとする。見知らぬ他者を排除することで,自らの存在価値を保持しようとする。たとえそれが悪いことだと薄々気づいていても,仲間から自分が排除されることへの不安があるため,それは容易にはやめられない。そして底なしの「空虚な承認ゲーム」にはまってしまうのだ。 

 

確かにそうなのかもしれません。かといってこうした状況の中で,どこに「ありのままの自分」を受け入れてくれる場があるのかという問題が出てくるでしょう。またそももの「空虚」でない「承認」というのがそんなに多くの場に存在するのかというのはありますよね。今までそれは「家族」という場であったようですが,今まで本当に家族が「ありのままの自分」を受けれいる場所であったのかという疑問もあります。

 

それで以前からネットでの承認欲求について問題視されることがあるのですが,そういう場を通して「ありのままの自分」を受け入れてもらう可能性もあるのではないかと思うんですよね。少なくともネット社会では「見知らぬ他者」を排除することはできないですから。

 

もちろんこのネットに関しても「空虚な承認ゲーム」だと言われるかもしれないですが,「家族」にも「仲間」にも「ありのままの自分」を認めてもらえる場所がないとしたら,すべてではなく一部であってもネットが「ありのままの自分」を受け入れてもらえる場になるかもしれません。ネットがそんな場になれたら,と切に願うのでした。

 

 

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