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いつか朝日が昇るまで

子育て、受験、日々考えたことなどを紹介するブログです。みなさんの気楽な子育て,中学受験を応援します。

バイト歴20年だから「評価経済」について考えたという話

考え方

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以下のしっきーさんの記事を読みました。「評価経済」というのは魅力的に映るわけですが、私はなぜ「評価経済」なの?「評価社会」とか「評価コミュニティー」が良いんじゃないの?と思ってしまったわけです。それでなぜそう思ったのかを書く前に、就職せず「多職」である私の実感を書きたいと思います。この部分は私も同意です。

 


たぶん、僕たちは就職しなくてもいい - しっきーのブログ

 

しっきーさんがまとめてくれているように多職によってリスクヘッジできるという主張は確かでしょう。

 

だからこれからは、「多職」という形で、多くの仕事や関わりを持ち、あらゆる方面にヘッジをかける動的な安定を目指したほうがまだ現実的だ。

 
就職活動で排除された人たちがさまざまな職を掛け持ちして生きていくというのはひとつのモデル足りうるかもしれない。例えば本田由紀さんはメンバーシップ型に対してジョブ型によって就活から排除された人たちも生き残る術があるとしています。
 
  当初の循環モデルでは日本の正社員はメンバーシップ型の働き方が想定されている。それぞれの業務(ジョブ)に関する契約性は希薄であり、メンバーだから配置された部署でとやかく言わずに何でもやる。配置権は企業に握られていて、行った先で素早く適応するのがメンバーシップ型の働き方だ。柔軟でどこに行っても全人的な力を発揮して適応する。序列化の太い縦軸が立ち上がってしまっている。ところが今はグローバル化もあり、同時に縦軸を横に倒し切り分けて、その格子の中に配置し、それぞれの中で教育しながら力を見定め、それに応じた処遇をしていくことにもなる。逆のメンバーシップ型なので、その中に部分的にジョブ型の領域を作っていければ、メンバーシップ型の中で排除されてしまった人たちも生きていけるルートができる。メンバーシップ型が消えてなくなることは日本の場合はなかなか難しいが、もう一つの足場としてジョブ型の発想が大いに必要だ。

  
“超”能力主義が日本社会を覆う | Books Review | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト 

 

確かに仕事そのものを請け負っていくことで生きていくことが可能になるというのは理解できるのですが,それと個人の評価を結びつけてしまうのには違和感があるわけです。

 

そのような多職の時代には、「所属に対する評価」よりも「個人に対する評価」が顕著にあらわれる。SNSの発展により、個人の評価が可視化されやすくなった。みんなから良い評価を得る必要があるので、わかりやすい形で誰かの役に立つ仕事が主流になってくる。金にならなくても、困っている人を助けるという行為に(評価)経済的なインセンティブが働く。税金をを集めて政府に再分配してもらうより、良い評価を得たいから困ってる人を助けるというやり方のほうが効率がいい。

 たぶん、僕たちは就職しなくてもいい - しっきーのブログ

 

実際にいくつもの仕事を掛け持ちして分かるのは「○○さんの紹介」「元○○社員」というのが大きな意味を持つということです。独立した当初というのはそうした肩書や紹介で仕事がくるのであり,そうであるがゆえに信用されるというのがあります。こうした評価が個人の評価となるまでにはかなりの時間がかかりますし,それが個人の評価にはならない場合もあります。 多職というのは多職でなければ生きていけないということも意味しているわけで,それぞれの仕事の単価は安いということを意味します。そのため,それが個人の評価とは結び付かないというのが私の実感です。

 

もちろんこれも職種によりますし,そうした仕事を積み重ねることで評価されていくこともあるかとは思いますが,個人で戦うということは,すなわちそれなりの技能を要求されるわけであり,私のような凡人が多職で生きるのは「○○さんの紹介」「元○○社員」以上の個人の評価を得ることはなかなか難しいのです。 

 

そこで冒頭に書いた問題。私はこうした評価に基づく社会というのは経済的な領域とは切り離されて存在すべきだと考えます。以下の部分などは私の考え方と重なる部分があるのですが,これを経済としてしまうと大切な人的なつながりが経済的な価値観に置き換えられてしまうと思うのです。 

 

評価経済の足音とは

評価経済」とは、貨幣経済では測れない「人気」などが流通していく経済のことで、それが芽生えつつある。もちろん金がなくなるわけじゃないし、今までどおり金を稼いで生きていく人もいる。それでも、今よりは金の権威が落ちていく。

 作った米や野菜を食べきれないからあげるとか、空き部屋があるから住まわせてあげるとか、誰かが困ってるからみんなで助けてあげようとか、このクリエイターの作るものはすごいから支援してあげようとか、金を介さない直接的なやりとりが多くなる。
 金に頼る人が少なくなれば、金を稼ぐことがもっと難しくなるし、金だけで手に入るものは少なくなっていく。このようにして、金の力は今よりも落ちていく。

 たぶん、僕たちは就職しなくてもいい - しっきーのブログ

 

 ひとつ,私が最近気になった記事を紹介します。これを読むと人的なつながりが金銭的な価値観に置き換えられているのではという私の違和感を理解していただけると思います。

 

転職や独立の際、有益な情報をもたらしてくれるのは、強いつながりの人たち(家族、友人)からでなく、弱いつながりの人たち(それほど親しくない人)だと、偉い学者の研究で明らかになっているようなのです。

「弱いつながり」でも「強いつながり」でもない第三のつながりについて| らふらく^^ ~ブログで飯を食う~

 

人とのつながりが結果的に有益な情報をもたらすのではなく,有益な情報をもたらしてくれるから人と繋がっておくとなると,人間関係を金銭的な価値観で置き換えていくだけになっていくのではないでしょうか。だから先ほどの人とのつながりは経済的な価値観と切り離されたところに存在しなければならないと思うわけです。

 

評価コミュニティーと経済を分ける必要性  

経済というのはあらゆるものを金銭的価値に置き換えてしまい,消費してしまいます。今,問題になっているのは経済的な価値という評価軸が他の評価軸にくらべてあまりにも大きいということ。だから就活に失敗すると自分が否定されたと思ってしまうわけでです。金を稼ぐ事に対する経済的な評価を得る場と自分の評価を得る場を分けていくことが重要なのであり,「人気」や「人のつながり」も「経済」にしてしまうと,結局金銭的価値観に置き換えられて消費されるのではないでしょうか。

 

私も就職ができなかったらしなくても良いし,大変だけれども多職で生きるということも可能だと思いますが,あくまでもそれは生きるすべであり,そこで自己の評価を得なくても良いのではないかと思いますし,実際にそこで評価を得るのは難しいと思います。

 

しっきーさんがまとめているところでも,そうした考えが書かれており,ますます「経済」とする意味を感じないのです。

 

 岡田斗司夫の考えは、今までは①「金を稼げること」が標準的な大多数の生き方として設定されていたけど、これからは①「金」と②「評価」のハイブリッドになっていく、ということだと思う。

 

まさにハイブリットだと思うんですよね。どちらか一方では生きていけないわけで,それを「経済」という同じ土俵に乗せてしまってはいけないのではないでしょうか。もちろんどちらをより重視するかというのはあるのですけど。

 

まとめ

 以上、私の違和感を書いてきたわけですが、こうした主張はハンナ・アーレントが政治を経済から救い出そうとしたのと同じ主張です。アーレントは個人の評価を経済とは別の場に求めたわけです。だから人の評価は経済的な評価だけにならないような社会。そうした社会が私の理想です。

 

ちなみに私の評価は以下の三沢文也 (id:TM2501)さんのオフ会で得られました。以下,そこでツベルクリン良平 (id:juverk)さんとの間でなされた自己紹介の際の会話です。

 

私:「私,一回も就職したことがなくて,バイト歴約20年なんです」

ツベルクリン良平 (id:juverk)さん:「すごいですね」(真顔)

 

私の評価は「すごい」ということです。理由は定かではありません。

 

 

評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

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