いつか朝日が昇るまで

子育て、受験、日々考えたことなどを紹介するブログです。みなさんの気楽な子育て,中学受験を応援します。

自由な選択と自己責任という嘘

f:id:gerge0725:20140721161752j:plain

 

以下の記事を読みました。id:fktackさんのブログ,結構好きでおそらく思考回路が似ているんだろうなと思って読んでいます(違ったらすいません)。


人生で選択できる場面なんてそんなにない - 意味をあたえる

 

人生において選択というのは常に迫られていて,失敗すればその選択に後悔し,成功すればその選択を誇らしげに語ることが多くあると思います。しかし,これからも分かるように選択というのは結果としてその選択が良かったのかどうか評価されるものであり,選択をする時点ではそれが最善かどうかは分からないというのがあります。だから本来,選択というのは自信を持って行われたものではなく,あとから自信を持った選択であると意味づけられているんですね。それが「人生を選択する場面なんてそんなにない」という話に繋がっていくのだと思います。だからこの場合,選択はしているんだけれどもそれが自信を持って行われていないと言い換えた方が良いかもしれません。

 

また私たちの選択と言うのは数多くある選択肢の中から一つのものを選んだと思わされているとも言えます。例えば食堂でご飯を頼むとき,A,B,Cと定食がある中から,常にAを選んでいるのは自由な選択と言えるのかと言うこと。そもそもBやCは選択肢としては存在していても選ぶ対象ではないということがよくあると思います。こういう時に責める側はBやCもあるのにAを選んだから自己責任だと言う訳ですね。でもBやCはそもそも選択肢になっていないんです。

 

例えば他にも私達には自由に勉強し,大学に進学するという選択肢があると言われるけれども,もしお金が無ければその選択肢は最初から存在しないのと同じことですよね。それなのい「あなたは大学進学を選ばなかった」とは言えません。

 

かつて丸山真男がAかBを選ぶのは主体的ではなくて,Cという選択肢を作るのが主体性なんだという意味のことを言っていて,なるほどなあと思ったのですが,そういう意味で考えると選択をするというのは主体的な行為ではないと言えます。「まずはビールで」と言われて「はい」というのは自由な選択の結果であるのかというのも疑問ですよね。選択の自由なんてそんなものだと。

 

選択肢が多くなったと言われているけれども選択できる選択肢はそれほど変わっておらず,むしろその選択に過剰な責任を背負わせている社会,そんな気がしてなりません。

 

 

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版