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いつか朝日が昇るまで

子育て、受験、日々考えたことなどを紹介するブログです。みなさんの気楽な子育て,中学受験を応援します。

敗戦は否認されている~「永続敗戦論」を読んで

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衆議院が解散され,今月の14日に選挙が予定されているますが,事前の予想では自民党の圧勝のようです。選挙というのは終わってみなければ分かりませんが,このまま行けば自公政権がしばらく続きそうです。

 

さて,自民党でありますが,ご存知の通り総裁は安倍晋三氏。今回はアベノミクスの成果を前面に掲げ,選挙戦を戦っております。私自身は経済の方を専門に勉強してはいないので,安倍総理の経済政策よりも,安全保障政策に関心があります。

 

かつては「戦後レジームからの脱却」と言っていましたが,最近は全然言いませんよね。まさか「戦後レジームからの脱却」がなされたとは思いませんが,そうした安全保障政策よりも経済政策に選挙の争点を絞りたいというのがあるでしょう。

 

この「戦後レジームからの脱却」という言葉。戦後の体制からの脱却という意味で使われていますが,何をもって「戦後レジーム」とするかは論者や立場によってさまざまでしょう。対米従属からの脱却という人もいれば,一国平和主義からの脱却つまり憲法改正を唱える人もいます。

 

そんな中,以下の本は戦後の根本レジームとして「永続敗戦の構造」を指摘しており,賛否両論ありそうで面白かったので,この記事では以下の本をもとに戦後について考えたいと思います。

 

白井氏によれば「永続敗戦」とは以下のような意味です。

 

敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で,敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない,という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論,このニ側面は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているがゆえに,際限のない対米従属を続けなければならず,深い対米従属を続けている限り,敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は,「永続敗戦」と呼ぶ。(47-48頁)

 

 

日本は敗戦を否認し続けているがゆえに敗戦後は存在せず,敗戦し続けるという主張はおもしろいのですが,これは加藤典洋敗戦後論の中で主張していた内容と同じです。実際にこの本でも加藤典洋の「敗戦後論」に触れています。

 

私自身が加藤典洋の一連の著作を読んだ印象もこの著者と同じで,日本が敗戦を受け入れるためにはまずは日本の英霊を弔わないといけないとしており,その先に他者との和解があるとします。そのためには現在の立ち場での「痩せ我慢」も必要だとするわけです。以前,加藤さんと話した時も福澤の痩せ我慢の説を評価していました。

 

敗戦後論

敗戦後論

 

 

 

日本人の自画像 (日本の50年・日本の200年)

日本人の自画像 (日本の50年・日本の200年)

 

 

 

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)

 

 

 私自身は加藤さんの説に賛成ではありませんし,本人にも言いましたが,日本人の英霊を弔った先にアジアの犠牲者がなぜ設定できるのかという疑問はあります。ただ白井氏のように日本が敗戦を引きうけるという文脈での解釈は可能かもしれません。

 

敗戦をどう引き受けるかという問題は当時の知識人の間でも行われたわけですが,それは「戦争責任」を問うものではなかったと小熊英二は言います。

 

当時の知識人にとっての「戦争責任」は,もっぱら日本の為政者が日本国民に与えた被害を問うことであり,あるいは知識人の身の処し方や「主体性」の問題だった。それは彼ら自身の経験や悔恨に根差していただけに,戦後の彼らの行動を支えるバネとなっていた。しかし,そうした戦争責任意識は「日本人」の外部への視点を欠きがちだったのである。(487頁) 

 

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

 

 

丸山真男の著作や座談に目を通したのですが,サンフランシスコ講和条約におけると単独講和か,全面講和かの論争に敗れてから勢いを失ったような気がします。そこまでの議論,例えば「主体性論争」などはとても面白かったのですが。そこには戦争をどう引きうけるかという問題を解決できなかった丸山がいたのだと思います。

 

丸山眞男と被爆体験〜当事者意識を表現することの難しさ - いつか朝日が昇るまで

 

 戦争をどう位置づけるかという問題は確かにアメリカとの関係が重要で,平和憲法もその後のアメリカとの関係,冷戦の開始に伴って再軍備という形で解釈改憲されていくわけですが,そもそも憲法第9条が日本の憲法であるという意味合いだけではなく,諸外国に日本は軍事力を持って国際紛争を解決しないという宣言であったわけです。しかし,その問題は議論されず,国内での自衛隊違憲か合憲かという話でしかなくなっていきます。これは多いに問題なわけであり,本来担うべきであった他国に対する保証を日米安保という形でアメリカが担っていくという形になっていると私は思います。

 

 

集団的自衛権の問題を考えるために~吉田茂の回想十年より - いつか朝日が昇るまで

 

さて,長く寄り道をしてしまいましたが,「永続敗戦」の議論に戻ります。こうした敗戦を否認している「永続敗戦」のもとでは以下のような問題が起こると筆者は言います。

 

かくして,絶対的な平和主義を憲法上規定しながら,アジアでの戦争(朝鮮戦争およびベトナム戦争)を経済発展の好機として利用し,「非核三原則」を国是としながら米国による核の傘の存在を自明的な前提としてきたというシニシズムは,いまその清算を迫られている。そのとき,結局は建前にすぎなかった「平和主義」や「不戦の誓い」と,本音での「好機としての戦争」や「核武装」とのどちらが優勢なものになるのか,答は自ずと明らかであるように思われる。(155頁)

 

つまりこうした「永続敗戦」の行きつく先は軍事大国化であるとしているわけです。筆者はいわゆる平和憲法改憲されれば軍事大国化まっしぐらだと考えているわけですが,私はそこまで急に軍事大国化するとは思いませんし,安易な二分法は危険であると思うわけですが,こうした危機意識を思想系の研究者が持つというのは理解できます。

 

また,こうした軍事大国化への道を歩まないためにも今こそ敗戦とは何か,戦後とは何か真剣に考える必要があるという筆者の主張には賛成ですし,私自身もその時代の問題について現在,考えているという状況です。

 

さいごに

日本の平和を考える際に,敗戦と戦争責任というのは避けて通れません。日本平和学会の学会誌にも以下のような記述がをあります。

 

戦後日本人の平和観が示してきた平和の限界,すなわち戦争責任を自覚することなく,自国民中心的に平和を考え,法制度の背景にある歴史性・政治性を疎かにしてきた点を意識し*1,軍備による平和が自明の前提とされる今日の政治の場での議論を覆すべく,人々の間に能動的な平和主義を生んでいかなくてはならない。また,強者による平和の議論となる危険性を自覚し,構造的暴力の上に無自覚に乗りながら展開される構造的暴力批判という自己矛盾に目を向けていく必要もある。(p.ⅺ)

  

平和を再定義する (平和研究)

平和を再定義する (平和研究)

 

 

戦争の問題を議論することなく,戦後の問題を議論することなく,日本の平和を先に進めることは出来ないのではないでしょうか。私は今,その問題に取り組んでいるところですが,今回の「永続敗戦」はそうした問題を議論する土台として重しいなと思いました。もしお時間があったらご一読ください。

*1:古関彰一 [2002],『「平和国家」日本の再検討」 岩波書店,275頁